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[案例分析] 射程外战法、阿号作战与小泽

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十年服役纪念章

发表于 2014-7-13 22:11 | 显示全部楼层 |阅读模式
在国内,所谓航空专家名将小泽“开发”的射程外战法一贯被认为是马里亚纳海战里的一大亮点,并被认为是日方战术指挥优于美国的范例,但很遗憾的是,作为当事人的日本人显然对此非常有意见

首先,很不幸,这个战法不是专家名将小泽的原创,而是古调重弹,这要追溯到30年代末的海大战术研究,作为技术革新时期的海大骄子们自然对开发新式战法兴趣盎然,随着舰载飞机的航程与火力日益增加,舰载机最显著的一个特点逐渐被人注意,那就是他们能延伸到现有水面部队火力范围以外的能力。于是无可避免的,炮术科与航空科的骄子们开始讨论将海军航空的侦查能力与日益增加的打击能力结合起来完善对敌方空母先发制人的打击的理念。在海大推演室的小房间里,一个个大胆的计划脱颖而出。在36年海大就提出了射程外分散打击理念并进行了,该作战理念的重要条件就是日本空母要在进入敌方空母的作战范围之前就要首先发起进攻。研究提议轻型空母应该以散队前进而大型空母则应该单独行动,运用这样的松散编队可以包围敌人集中各个空母的打击力量同时自己不会成为集中目标。指出对敌方舰队的空中打击部队要在距离敌方350英里时起飞,当日方空母部队距离敌方250英里时,所有出动的飞机都应该已经开始对敌舰发动进攻。成功的关键就是利用突击和超量程发动先发制人的大规模袭击。虽然该项研究对于维持空母部队上空的战斗巡逻和分散的航母如此自保只字未提,但如果敌方的空母打击力量在作战已开始就已被摧毁那么也就没有必要考虑什么防御啦。

当然到了40年航空战术大研讨,一航舰建立,太平洋作战爆发后,这个华丽战法就被一线参谋们扔进了废纸篓,但总有些人对此感到颇为可惜,在南太战役的总结上,就有人跳出来指出应该使用此华丽战法,那么连两艘空母都不会受伤。当然,在一线实务人员把持作战岗位的时刻,这类责难,只需要呵呵呵呵

另外,航空射程外战法还有个同胞兄弟,那就是炮击射程外战法:

戦舰大和が建造された当时、英米の戦舰は40センチ炮を装备し炮撃距离は3万メートルであったが、大和は45センチ炮を装备し炮撃距离は4万メートルであり速力も他の戦舰より速かったため、逃げながら炮撃するアウトレンジ戦法を取れば、海戦の际绝対优位に立てると考えられていた。そして、 「我ガ主力舰ハ射程ニ於テ4、5千米优越シ」ているので、 「『アウト・レンジ』ニヨリ先制ヲ加フル」べきであるとし、1939年6月策定の连合舰队戦策においては、 「我主炮ヲ以テ敌主力トノ射程差ヲ利用シ、远大距离ヨリ先制射撃ヲ実施シ敌ノ射撃开始ニ先立チ之ニ一大打撃ヲ加ヘ、 以テ戦势ノ均衡ヲ破リ胜败ノ帰趋ヲ决スルハ帝国海军ニ执リ戦胜ノ一大要诀」であるとしていた。————————————羽仁谦三『海军戦记―われ,単舰シンガポール港占领せり』

可惜同胞不同命,他和后来的射程外夜间超超远程雷击战法一样,被视为日本海军脑洞的典范这是赤裸裸的歧视!!!

对于「あ」号作战里的射程外战法,日本人的看法是

「あ」号作戦不成功の原因はアウトレンジ戦法强行のほか少なくないが、そのうち主要なものについて、まず野村実氏著「歴史の中の日本海军」から引用する。

日本海军の败因は、アウトレンジ戦法をとったことにより搭乗员が実际の戦闘までに2时间半程度もの长时间飞行を强いられ,开戦时のエースパイロットやベテランの熟练者达の持つ技量で行うことを前提にしたアウトレンジ戦法で2时间以上飞び続け敌舰队を攻撃することはほぼ不可能に近かった。——————太平洋戦争研究会

米机动部队は、十九日には日本舰队を発见できず、二十日夕刻にやっと発见して一回だけ攻撃を実施している。従って、米侧は十九日は防御だけに専念して、保有する戦闘机全机(四七五机のうち四五〇机出撃)と有効な対空炮火を駆使して、结果的には、日本の空母机を多数撃坠するという戦果を挙げることができた。

アウトレンジ戦法は、日本海军机の航続力の长い利点を采用し、一见合理的な戦法である。しかし、ソロモンの航空消耗戦で练达の搭乗员を多く失った结果、航法能力もあやしい、戦闘能力は绪戦时の半分にも达しない、搭乗员が大半を占める当时の実情から见ると、无理な戦法であった。かりに、练度が十分であっても、防御力を强化した相手に対しては、损害は大きかったと思われる。————————————零戦搭乗员会『海军戦闘机队史』原书房

人家很多研究者早早就认为这个计划就是坑爹计划。

首先,早在一航舰建立,为了Z计划而秘密筹备时,真航空专家源田同学和他的小伙伴们(吉冈、渊田、村田等等)在集思广益后就确定,为了保持飞行员状态,保证攻击效果,最佳攻击距离就是200~230海里,最多不超过250海里,这样飞行队编队、集结、飞到目标上空后只需2个小时,可以比较好完成任务,并返航。但从布哇作战中可以发现,别说普通队员,就是那群千时俱乐部成员在完成这样任务后都会筋疲力竭,技术走样着舰出事故

然而,当我们的专家名将让飞行队执行了这个长达2个半到3个小时飞行距离的攻击计划,事后把责任一脚踢到飞行员练度不佳的问题上,原以为就这么糊弄过去了,但很不幸的是总有闲的蛋疼好事者发掘事实真相

日本海军は、新规搭乗员の大量养成・母舰搭乗员の急速錬成にもかなりの努力を払い、川崎まなぶによれば、本海戦に参加した全母舰搭乗员の平均飞行时间は、开戦时~南太平洋海戦までと比べてもあまり逊色ないレベルであったとしているが、その大半が基础训练を终えたばかりの実戦の経験も无い、新规の搭乗员で占められており、更に编队指挥官の任に堪えうる熟练搭乗员や実戦経験者は极少数に过ぎなかった。本来は时间の経过とともに増大するはずの平均搭乗时间が多少であれ却って减少していることは、搭乗员の损耗率の高さを物语っているともいえる。

このため、もともと技量のある指挥官クラスの搭乗员は列机を率い戦う训练を行う事が出来ず、また新规搭乗员は训练不足で技量の维持ができないという结果となった。故に、长距离を洋上航法を用い编队飞行で敌舰队を攻撃した后、また母舰まで往复するアウトレンジ戦法は、当时の母舰搭乗员の技量を无视して强行された戦法であった。さらに、敌舰队や敌机に遭遇せずとも未帰还(行方不明)となった机体が多かったのは、十分な训练の机会と时间を与えられなかった事が原因であり、败北の一因を形成している。——————川崎まなぶ著『マリアナ冲海戦 母舰搭乗员 激闘の记录』


也就是飞行队普通队员的练度并不差,可以媲美开战时到南太的前辈们,但很遗憾带队的资深飞行军官和飞行骨干在布甘维尔和拉保尔严重消耗的,这大大影响了他们远距离搜索攻击、大型编队维持能力,更影响了他们在攻击后,分散撤退中集合返航的机会。加上为了满足专家名将特殊需求,庞大的侦察队又占去了大批老飞。


これを避ける为に攻撃队の前方に前路索敌(诱导)机を飞ばした。诱导机は攻撃终了后、再び攻撃队を母舰まで诱导することも期待された。しかし结果的にそれらの効果は认められず、结局多数の未帰还机を出すのみにおわった。

NHKで放送された『证言记录  兵士たちの戦争「マリアナ冲海戦  破绽した必胜戦法」』でも言及されていたが、広い太平洋の真っ只中で何の目印もない状况で、出撃した航空部队が母舰に戻ってくることは、敌を攻撃する以上に难しかったという。特に戦闘爆撃机として出撃した零戦は単座であったため、航法管制をする搭乗员がいないので、独力で戻ってくることはほぼ不可能に近かったといわれる。そのため、アメリカ侧に撃坠されただけでなく、洋上で机位を失し燃料切れで母舰に帰还できなかった母舰机も相当数あったようであるが、その実数は不明である。

结果就是打散编队的单机,不仅难以与编队长机会合,也难以遇到诱导机指引,而舰队用的诱导无线电,工作半径也无法远达300海里外,导致幸存机组的导航必须准确无误,否则只能化为鱼饵,这大大加大了飞行队的损失。


アウトレンジ戦法を采用するならば相応の技量に引き上げる为の各种训练が必要であったが、タウイタウイ入泊后は殆どその机会が无かった。编成の早かった一航戦舰载の第601海军航空队搭乗员は、リンガ泊地・シンガポール付近で约一ヶ月程の训练を行ったが、タウイタウイ入泊后は2回しか训练出来无かった。 その原因としては、タウイタウイ近辺に、全舰载机を挙げて训练する飞行场がなかった事、そもそも泊地自体が第一机动舰队が全舰入泊した时点で一杯になり、泊地内で空母が母舰机の训练を行なう事が出来无いほど狭かった事、タウイタウイ岛周辺に米潜水舰が多数出没した为、泊地から出て训练ができなかった事が挙げられる。

アウトレンジ戦法を采用するならば相応の技量に引き上げる为の各种训练が必要であったが、タウイタウイ入泊后は殆どその机会が无かった。编成の早かった一航戦舰载の第601海军航空队搭乗员は、リンガ泊地・シンガポール付近で约一ヶ月程の训练を行ったが、タウイタウイ入泊后は2回しか训练出来无かった。 その原因としては、タウイタウイ近辺に、全舰载机を挙げて训练する飞行场がなかった事、そもそも泊地自体が第一机动舰队が全舰入泊した时点で一杯になり、泊地内で空母が母舰机の训练を行なう事が出来无いほど狭かった事、タウイタウイ岛周辺に米潜水舰が多数出没した为、泊地から出て训练ができなかった事が挙げられる。

编成が遅れた二航戦の第652海军航空队、三航戦の第653海军航空队は、内地で満足に训练が出来无いままタウイタウイに直行した为、仅かに回航中に1回、入泊后5月18日と同31日の2回しか训练を行えなかった。その为、二航戦の奥宫正武航空参谋は「タウイタウイでは”如何に练度を上げるかではなく””如何にしてこれ以上、练度を下げないようにするか”に腐心した」————————————奥宫正武『日本はいかに败れたか』

363空飞行长の进藤三郎は「その顷の搭乗员の练度は何とか着舰ができる程度、洋上航法や空戦はやっとこさ というくらいで、とても『アウトレンジ戦法』どころではなかった。」と述べている。————————————神立尚纪『零戦最后の证言2』

更糟的是,由于我们都知道的潜艇的关系,在塔威塔威锚地集结的第一机动舰队基本没机会在领会领导意思后,展开有针对性的强化训练,只能练练起降、射击这类基本功,对于远洋海上编队保持、搜索、导航基本就是练都没机会练,把一线航空军官急得半死,但丝毫无损司令部的乐观判断


また、长距离飞行により生ずる时间経过によって索敌机が発见した目标位置の误差が拡大し、未錬成の搭乗员では目标を発见出来无い恐れがあった。


接着,由于侦察半径和打击半径的巨大距离,以及飞行时间的拉大,早期作战中就让各级指挥官深恶痛绝的侦察报告失误变得越发严重,不仅误报导致白跑,报的靠谱些,也会因为被对方猎杀或丢失目标,等飞行队辛辛苦苦飞到,美舰队早就不知道跑哪里去了,还是白跑


また、日本海军の空母が相手との距离を缩めないように同じ海域に留まっていたため、次々と敌潜水舰の饵食となってしまった。————————————『真実の太平洋戦争』(第二章 数多い误认と误解 2 梦に终わったアウトレンジ戦法より


更糟的是,为了保持距离,机动部队不得不在同一水域反复巡游,而非以往的机动对决,结果在舰队对决中罕见的一幕出现了,潜艇猎杀了两艘宝贵的大型舰队空母。在同一水域反复巡游,这也是美国人在瓜岛折损2艘航母战力的原因,但那是在护卫补给线的过程中,而第一机动舰队是发生在海上会战期间,如此稀奇送货上门,真是让人无语

当然,谁都比不上被卖的飞行员怨气重,你看看

652空飞行队长として出撃した阿部善朗大尉は、日本の机体は防御力を犠牲にして航続距离を伸ばしたためアウトレンジは可能だが、航法误差が大きくなるため技量が必须であり、「お前らは火の中に飞んで行け、俺は川の向こう侧にいるぞ」というのと同じで攻撃队の士気が高まらないという。

また、攻撃队搭乗员にのみ过重な负担を强いることになった。刺し违える覚悟で200マイルに肉薄して攻撃队を放つべきだった。そうすれば七面鸟でももっと多く敌空母を攻撃しえたはず、たとえ负けても帝国海军の武勇を示し多少なりとも死に花を咲かせえたと思うという。

甲板を散歩する小沢はいかにも顽固そうで尊大ぶった印象で航空部队の运用についてどれほど勉强したか、飞行队の実情をどこまで把握しているのか疑问に感じたという。————————————阿部善朗『舰爆队长の戦训―胜ち抜くための条件』

阿部同学啊,人家就是傲慢,就是不顾实际,就是隔岸观火,你想咋样,咬他?


不过对于阿号作战,小泽同学还是非常认真的!在对之前战斗的总结中,表现出颇为能干的一面,劈里啪啦的一通总结,接着就推出了自己的华丽战法实事求是的说,其中的强化侦察,先手打击的思想还是挺对头的,可惜思路是一回事,实际操作就是另一回事了


小沢は「ミッドウェー海戦で日本がやられたように敌空母の飞行甲板を壊すこと」「相讨ちはいけない、负ける」「味方の舰を损伤させてはいけない、人命より舰を尊重させる、飞行机は弾丸の代わりと考える」「ミッドウェーの失败を缲り返さないように绝対に敌より先に漏らさず敌を発见する、攻撃兵力を割いても索敌する、三段索敌を研究せよ」「阵形は轮形阵でなければならない」と幕僚に指示し、攻撃は2段とし、まず零戦の爆撃で先制奇袭して甲板を破壊し、主队の飞行机で反复攻撃し撃破、追撃は前卫戦舰が全军突撃するという案にした。————————————吉田俊雄『指挥官たちの太平洋戦争』

开打前的动员会上,更是嘴炮打得豪气干云,把底下的士官吓得各个身板一直

5月20日、小沢治三郎中将连合舰队第一机动舰队司令官は旗舰「大凤」で训辞を行った。
1.今次の舰队决戦に当たっては、我が方の损害を省みず、戦闘を続行する。
2.大局上必要と认めた时は、一部の部队の犠牲としこれを死地に投じても、作戦を强行する。
3.旗舰の事故、その他通信连络思わしからざるときは、各级司令官は宜しく独断専行すべきである。
4.もし、今次の决戦でその目的を达成出来なければ、たとえ水上舰艇が残ったにしても、その存在の意义はない


但对于他之后实际的作为,用布哇作战时渊田的一句话就可以顶回去「攻撃队が决死の攻撃を行うのに母舰が逃げ腰では士気にも関わる」

如果还要加上什么的话,阿部同学这句也可以,「お前らは火の中に飞んで行け、俺は川の向こう侧にいるぞ」というのと同じで攻撃队の士気が高まらないという


在攻击队发进的时候,我们的专家名将是何等的意气风发,志得意满
小沢は旗舰に军楽队を乗せていったほど胜利を信じていた————————————吉田俊雄『指挥官たちの太平洋戦争』


但最后的结果,对于满怀信心的他和日本海军而言,却是如此的残酷

日本人としては、まことに口惜しい言叶であるが、これが実相であったろう。日本侧はこの戦いで大凤、翔鹤、飞鹰という数少ない正规空母とそれに准ずる空母3只を失った他、参加航空兵力の3/4以上となる378机もの航空机の损失により第一机动舰队は事実上壊灭、日本海军は二度と机动部队中心の作戦を行う事ができなくなった。戦局の挽回や有利な条件で讲和を结ぶ可能性は完全に失われた。


那么玩脱了以后呢?

戦后の话だが、小沢の周囲の戦史研究家が、アウトレンジ戦法について、疑问に思うことを质问したことがあった。それに対して小沢は「それなら、ほかにどんな方法がある」と答えたという。————————————「日本海军の兴亡」(PHP文库)

到了战后,面对普通战史研究者的质疑,专家名将可以一贯以一张冷脸加“除此之外,还有什么办法吗?”给直接顶回去

不料,后来防卫厅战史室开始编撰战史丛书,这玩笑开大了,紧急跑去解释“小沢は戦后、防卫庁戦史室でのインタビューに「彼我の兵力、练度からしてまともに四つに组んで戦える相手ではないことは百も承知。戦前の训练、开戦后の戦闘様相を考え、最后に到达した结论は『アウトレンジ、これしかない』であった。戦后になってアウトレンジは练度を无视した无理な戦法とか、元から反対だったとか言い出した関系高官が出て来たが、当时の航空関系者は上下一贯してこの戦法で思想は一致していた。」と语っている。”————————————田中健一「マリアナ冲海戦 作戦指导批判に异论あり」『波涛』

不说的那么绕的话,就是当初考虑种种情况后,结论是除了射程外战法,没有其他没法子了,这是当时航空人员上下一致认同的,你们要相信我。不料,好死不死的小组里居然有八卦王子角田求士同学,这个麻烦可大了

また、角田求士は海戦后、搭乗员から「打ち合わせで远距离攻撃は现在の技量では无理と司令部と议论した」と闻いたという。 ————————————『戦史丛书 12 マリアナ冲海戦』


首先,此公当年就听说了种种传闻然后,自然找到了当年在大凤会议室就敢当面质疑的奥宫同学。


このアウトレンジ戦法に対いて反対意见もあった。第二航空戦队参谋奥宫正武少佐は、议论までしなかったが、大凤の打ち合わせで、练度に自信がないため、反対意见を述べたという。 ————————————『戦史丛书 12 マリアナ冲海戦』

小沢中将がアウトレンジ戦法による作戦を立てていたのに対し、乙部队の首脳阵、特に奥宫航空参谋はそれを行うには母舰搭乗员の技量から见て自信がもてない、と感じていた。 ————————————『戦史丛书 12 マリアナ冲海戦』

一贯骂娘的奥宫同学又扯出了源田同学。

军令部航空参谋源田実中佐は、搭乗员が环境になじむための飞行が必要であり、航続距离一杯だと攻撃も穷屈になり、回収できる帰还机も回収できず、搭乗员への负担も大きく心理的にも悪影响として飞行距离は150海里から250海里が妥当と考えて、现地に出张した际に小沢の幕僚に忠告したという。 ————————————『戦史丛书 12 マリアナ冲海戦』

接着原上司山本同学也被扯进来。

山本亲雄(军令部1课长)も源田は「搭乗员が技量未熟なことを考えて远距离攻撃は慎むように注意しておいたのに」と残念そうだったという。————————————山本亲雄『大本営海军部 回想の大东亜戦争』

后来又扯上了上司的上司中泽同学。

中泽佑中将によれば、戦前の小沢のアウトレンジ戦法の研究は、敌の圏外から我のみ攻撃を加えるというものではなく、具体的策として航空、炮术、何れも敌に先んじ一撃加え寡势を补い、事后有利な体制で戦うものであったという。航空机、大炮、水雷、何れもアウトレンジで最初の5分で戦闘は决まるという思想が元来からあった。 ————————————『戦史丛书 12 マリアナ冲海戦』

于是乎,以上这几串血淋淋的白纸黑字就登上了战史丛书的大台,我们的专家名将那个泪啊

しかし小沢は「飞行机を弾丸と考える」と発言していることからも、その戦术思想は航空机の可能性を见通したものではなく、小沢の専攻分野である水雷戦そのものであったという指摘もある。————————————吉田俊雄 『良い参谋、良くない参谋 8人の海军サブリーダーを斩る!』

空母部队だったが、小沢もその幕僚も空母での作戦経験があるものはいなかった————————————豊田穣『海军军令部』讲谈社

航空参谋田中正臣は、小沢は自ら决し幕僚に细目を计画させる指挥官先头型で実戦型という意味では満点に近いが、飞行机に対する知识が绝対的に不足しており、舰长が持っている程度の知识で训练や性能の意味を良く知らなかったと评価する。————————————吉田俊雄『指挥官たちの太平洋戦争』

更可恶的是一堆昔日的部下,全然不顾老上级受伤的心灵和完美无瑕的形象,继续揭伤疤,挖老底,这真是太不地道了,太不体面了

最后,以奥宫同学的思考来结尾,不懂日语的同学也借此立即理解上面那堆日本人吐槽的内容

   “射程外”究竟是什么意思?这有些叫人费解。这天首次战斗中我军所采取的射程外战法如果说纸上谈兵还是有其道理的,作为一种战术,它可能很符合航空母舰空战的实际。不过,这指的是棋盘上的棋子定得步数得当的情况。

  敌我之间距离有400多海里,在这样大的距离上,我方先杀出一枪.这样,我们就可以先发制人,无一遗漏地狠狠地打击敌军全部航空母舰,利用航空母舰的脆弱性,我们的目标是使其失去飞机起降的功能。结果,在敌军飞机不能起飞的情况下,我军以全部兵力向其近逼,放开手脚,狠狠地打击,这一切就是射程外战法的实质。这虽说是一种一厢情愿的想法,但从战法上看,还是可能实现的。战斗中总要拼个你死我活,在一次决定胜负的航空母舰空战中,这种战法有时是可取的上策。问题仅仅在于要想达到目的,则必须有适合于此种战法的精锐部队。

  部队宜按主将意图行事,从这一点来看,小泽部队还缺乏此种素质。行动能力本来是使用飞行队的基础,可是连这样一种素质也相当欠缺。连飞机在舰上起飞降落这样动作也老是叫人捏一把汗。天气稍有不佳,就连出动集合编队都不会组织,飞机竟然飞得稀稀拉拉。在大洋上导航不一定十分可靠,能否找到敌军位置,这是一个时刻叫人担心的问题, [ 注:为了找到敌军的准确位置,我为第二航空战队的第一次攻击和第二次攻击准备好了前路搜索飞机,以便作为攻击队的耳目,有助于捕捉目标,遗憾的是搜索的效果没有用得上。搜索机发现目标,而攻击机却未能发现,这在以前是无法设想的。 ] 凭着这样的训练程度,慢说作战,就算是平时进行演习,也会有相当的牺牲。再说,现在的问题是:所谓的训练是在同敌军交锋之前进行的。说它水平怎样高都可以,然而实战中情况就不一样了,在十分困难的空战和鱼雷轰炸中,如果没有很高的训练水平是难以收到战果的。各参战部队的司令部不知是否清楚地认识到了飞行队的这种技术水平,如果认识到了,那就应该用航空母舰部队来弥补飞行队技术水平低的弱点,也就是说最好是让我舰队接近敌军,敌我之间的距离可以缩短到150-100-50海里。这样做就不是让敌人伤及皮毛,而是要伤筋动骨了。就算是敌我双方都伤筋动骨,拼死厮杀,难道不正是我们此次决战之初就下定的决心吗?这不正是所谓的“最后舰队决战”吗?

  何况打仗并非唱独角戏。我考虑了一下当天敌军的情况。难道说是我方的射程外战法奏效了吗?要不然为什么一架来袭的敌机也没有呢?把我方攻击队的报告综合在一起一看,原来我攻击队都是在距敌军部队20到40海里的范围内,被敌军的由优势战斗机组成的警戒幕给拦截住了。这天,敌军放弃了对我舰队进行空袭,这也许是他们想采用一点迎击的战法吧?他们把雷达全部开动起来,集中使用全部舰载战斗机,凭着绝对有利的态势以逸待劳。而我军攻击队则为了运用射程外战法不惜远程而来,结果弄得疲备不堪,这样,敌军就可以把我攻击队个个击破了。

  这确实是合理的战法。敌人是不是要把我空中兵力引向己方巢穴,而后加以攻击,击败之后再从容出击呢?

  好像是中了敌人的诡计。看来,敌人的才智高我一筹,如今大势已定,无可改变了。实行追击战的不是我们,而是敌人。说不定敌军从明天就将转入追击。明天,我们难免要遭受敌军的激烈的空袭了吧?……我反复思考之后,终于得出了上述看法。

当然,他也想的多了些,人家才没你们家司令这么复杂呢

中将

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发表于 2014-7-13 22:47 | 显示全部楼层
本帖最后由 seven_nana 于 2015-2-9 14:27 编辑

Out range战法

无独有偶,德国佬也有在尽可能远的距离上展开炮战的想法,以下是美国战后调查员在看了德国人写的战术指导手册后在其调查报告(United States Naval Technical Misson in Europe Report 45-372 German Fire Effect Tables)中写下的评论:

"It is of interest that they considered themselves so far superior that they state that it is best to choose the longest range compatible with all other conditions, as at the long range the superiority of men and material of the Germans will pay dividends, while at the shorter ranges even an inferior enemy may succeed in getting hits."

这不就是传说中的雅利安人种优越性么,相比之下日本人还算是务实的,至少46cm炮射程确实比英米鬼畜的远。

大校

论坛贵宾

十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-13 23:01 | 显示全部楼层
seven_nana 发表于 2014-7-13 22:47
Out range战法

无独有偶,德国佬也有在尽可能远的距离上展开炮战的想法,以下是美国战后调查员在看 ...

连德国都来凑热闹,他们是把战争当电子竞技玩吗?这种战法用来平时消磨下时光可以,编成正规战术时,就没个明眼人看出来吗?

奥宫对于这个荒唐计划出台的前后缘由的解释

  5月3日,丰田大将作为联合舰队司令长官,根据大本营军令部的作战指导方针,发布了联合舰队「阿」号作战命令。其要点是:联合小泽治三郎中将指挥的机动部队和角田觉治中将指挥的基地航空部队的战力,对以空母机动部队为基干的敌舰队白昼强袭,进行远距离的先发制人攻击。

  大本营海军部和联合舰队司令部统一思想后的作战方针是,采纳小泽中将于昭和19年3月提出的机动部队战策。但这并不是纸上谈兵,实质问题这种战策有不容忽视的巨大缺陷。小泽部队和角田部队的飞行队不但训练程度明显不足,所需的器材与定额相比也有巨大短缺,而且明显对美机动部队的实力缺乏认识。

  当时,军令部总长(大本营海军幕僚长)是海军大臣岛田繁太郎,军令部次长是伊藤整一中将、第一部部长(作战部部长)是中泽佑少将。另一方面,联合舰队参谋长是草鹿龙之介中将,首席参谋是高田利种大佐。这些人中,只有草鹿中将和高田大佐有空母对空母的战斗经验,但也不是历经战斗的飞行将校。另外,航空出身的军令部第一课课长山本亲雄大佐、负责航空作战的部员源田实中佐、联合舰队的航空甲参谋渊田美津雄中佐等,虽然充分掌握第一线部队的实情,但他们担任的也只是辅职。

  就像上面说的,决定「阿」号作战方针时,那些航空出身者没有充分的向他们的上级提出意见,或是他们虽然提出了意见但他们的上级却并不理解。我曾在马里亚纳海战前夕直接地告诉过源田中佐,机动部队的飞行员的训练程度明显不足。但军令部和联合舰队司令部的多数意见是采纳「超远距离」战法。

  那原因究竟在哪里呢?昭和18年后期,东南方面美军投入了许多新锐飞机,海军的F6F、陆战队的F4U、陆军的P-38等,我方只是彗星和天山等少数新制式飞机,飞行员的训练程度急剧下降,敌我航空战力已无法相提并论。而前面说的飞行将校出身的人很可能并没有如实地了解到这些情况。

  源田中佐于昭和17年11月以后离开第一线工作,据我所知,他也反对「超远距离」战法。渊田中佐在中途岛海战中负伤后经过短暂的内地工作,昭和18年7月新编第一航空舰队时,任该舰队的作战参谋,业务是编成10个以上的航空队。他的前任和古贺大将一同战死,他本人于昭和19年4月末就任联合舰队司令部航空甲参谋。因为有这样的情况,他可能并没有机会详细了解母舰飞行队的实情。山本大佐开战前离开第一线部队,有些事情的确是无法了解的。

上尉

十二年服役纪念章旗手

发表于 2014-7-13 23:36 | 显示全部楼层
seven_nana 发表于 2014-7-13 22:47
Out range战法

无独有偶,德国佬也有在尽可能远的距离上展开炮战的想法,以下是美国战后调查员在看 ...

英德二战几次交锋貌似都是大英先开火的。。。BSM在丹麦海峡保持航向打到15000码左右了也没转向拉开距离。。。

大校

论坛贵宾

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 楼主| 发表于 2014-7-13 23:45 来自手机 | 显示全部楼层
akagizuo 发表于 2014-7-13 23:36
英德二战几次交锋貌似都是大英先开火的。。。BSM在丹麦海峡保持航向打到15000码左右了也没转向拉开距离。 ...

办公室编手册的可以随意脑洞嘴炮,一线干实务的可未必就照做,谁傻啊!

少将

十一年服役纪念章

发表于 2014-7-14 22:08 | 显示全部楼层
实际上战史丛书对射程外战法基本是持肯定态度的。



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"truly a fighting admiral who never lost a battle, nothing was forgiven and very little applauded."

大校

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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-15 06:36 来自手机 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-14 22:08
实际上战史丛书对射程外战法基本是持肯定态度的。

在原司令长官亲自跑来解释的情况下,还要把奥宫和源田的话放进去,这是何等的不体面-_-|||

大校

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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-15 08:18 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-14 22:08
实际上战史丛书对射程外战法基本是持肯定态度的。

既然抄了发源自空母分进合击思路下的射程外先手打击的思路,却把原案里那句‘遇しするの覚悟あるを要す’给漏了

このアウトレンジ戦法は小澤長官が強調したもので、四〇〇~四五〇カイリから発艦し、母艦は全速力で敵方に突進し、飛行機隊を収容して、反復攻撃を行うものである。
————————加上实际上说一套做一套

到底是劣势翻盘不得已,还是死道友不死贫道,可就难说了

列兵

九年服役纪念章

发表于 2014-7-15 14:13 | 显示全部楼层
南云假如活到战后不知道会怎么样,认命背上源田渊田草鹿等人给自己搞的一堆黑锅?

一等兵

十二年服役纪念章

发表于 2014-7-15 15:38 | 显示全部楼层
小泽被黑得好惨啊

下士

十二年服役纪念章

发表于 2014-7-16 06:37 | 显示全部楼层
小泽战前捣鼓这个的时候军内就已经有人批评这招是把飞机当炮弹用了。
而且飞行员练度这个问题,普通飞行员也是不及南太那会的。甲飞的训练缩水在那里摆着,南太前发着舰训练的损失可没有阿号这么多。
当时小泽采取远程战术一个原因就是怕船出事,宁可牺牲飞机也要保住船。
因为小泽觉得飞机产量在那摆着,飞行员按照海军的计划,下一批的数量也够用了。但是船没了就彻底完蛋,当时丸五改的航母建造速度都低于预期。
而且阿号小泽用战爆零战这个太鄙视美军的航空预警能力了,以为用爆装零战拿先手,还以为是昭和17年的情况。。
当时日本人感觉并不清楚美军CIC的情况。就算弄清楚了也是阿号以后的事了。
起锚!两舷微速前进!

少将

十一年服役纪念章

发表于 2014-7-17 00:12 | 显示全部楼层
jerrydong 发表于 2014-7-15 06:36
在原司令长官亲自跑来解释的情况下,还要把奥宫和源田的话放进去,这是何等的不体面-_-||| ...

各种说法都列出来,这是“参谋战史”的写作风格。中途岛也是这样,战前反对中途岛作战的观点也列出来的,并不顾忌山本黑岛等人的面子。一旦打了败仗,特别是像中途岛和马里亚纳这样的大败仗,各种战前反对的声音都会变得更响亮,其中不免有些事后诸葛亮的因素。
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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-17 07:21 来自手机 | 显示全部楼层
solamnia_ 发表于 2014-7-16 06:37
小泽战前捣鼓这个的时候军内就已经有人批评这招是把飞机当炮弹用了。
而且飞行员练度这个问题,普通飞行员 ...

甲飞?他们可不是大头,甲飞10的菜鸟数量更少。如果指飞练12期以后各飞毕业生实用机飞行时缩水的话,南太的乙10,丙3也一回事,而且43年教育时间又涨了回去一段日子,正好是这波人毕业。

发着舰不算损失大头(4—6月里不过3组),各种海上练习才是。

8月就有2艘云龙级补充,10月还有一艘,满300的飞行员可不是说有就有,再说这会不嫌弃飞历不满一年了。

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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-17 07:30 来自手机 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-17 00:12
各种说法都列出来,这是“参谋战史”的写作风格。中途岛也是这样,战前反对中途岛作战的观点也列出来的, ...

受教,不过赵括同学最遭人恨还是战前嘴炮”最后的舰队决战””飞行队先发,舰队全速接敌”,结果实战里又怂又缩@_@

还有就是大凤爆后,没按自己说的那样,早早放权给栗田。

中途岛战场选择是山本力推的,射程外战法是小泽力推的,结果玩砸了当然得负主要责任,而不是一脚踢到一线实战的死人头上>_<

少将

十一年服役纪念章

发表于 2014-7-17 23:57 | 显示全部楼层
jerrydong 发表于 2014-7-17 07:30
受教,不过赵括同学最遭人恨还是战前嘴炮”最后的舰队决战””飞行队先发,舰队全速接敌”,结果实战里又 ...

中途岛战场选择并不是主要的败因,甚至是不是败因都不好说。美国没有预先知道日本的作战计划的话,绝不可能变成实战那样的结果。

小泽的战法嘛,和最后惨败的结局有多大的关系,我觉得并不容易确定。

前些天马里亚纳七十周年,这里有个讨论的贴子,据说日本并不知道美国航母编队的力量有了很大的提升,特别是防御方面。
http://propnturret.com/tully/viewtopic.php?f=4&t=2320
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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-18 07:22 来自手机 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-17 23:57
中途岛战场选择并不是主要的败因,甚至是不是败因都不好说。美国没有预先知道日本的作战计划的话,绝不可 ...

马利亚纳决战前,斯普鲁恩斯一样分兵小笠原,仅留2,3大队8空母防御,如果不是潜艇幕发挥效果,小泽将以对等兵力发起奇袭,结果就难说了。如果这样斯总难逃菲总和南云下场。

推到中途岛,山本既然选择了这个在己方基地侦查幕外的战场,自然必须考虑到强化潜艇幕的警戒,但显然他没重视,可用艇不足,到位缓慢,这一切都导致本方处于无预警状态入场,这都是战场选择与计划筹备的错漏导致,而一线部队对此茫然不知。

既然试图决战,最好选择本方能掌控的战区,否则就尽量强化预警手段来掌握局势,所谓先胜而后战。

吕号11月11日反击,一航战平均1100,没有300以下的精锐攻击队近乎全灭(仅3架舰爆返航),日方总结里对美方防御力提升有提及,旧型舰爆舰攻昼间突防近乎不可能,舰战援护战法须改进。这还只是三空母战斗群的防御力,如果是多群联合,防御力预估自然也要提升。

少将

十一年服役纪念章

发表于 2014-7-18 08:29 | 显示全部楼层
本帖最后由 genie854 于 2014-7-18 11:15 编辑
jerrydong 发表于 2014-7-18 07:22
马利亚纳决战前,斯普鲁恩斯一样分兵小笠原,仅留2,3大队8空母防御,如果不是潜艇幕发挥效果,小泽将以 ...

中途岛并不是没有侦查手段,而是对于美国舰队出击的时机判断失误。计划是先占领中途岛,然后靠水侦、中途岛基地、加上航母的侦查,另外有潜艇散开线探查美国舰队从珍珠港出击的情况。如果美国舰队按照日本的设想的时间出现,这些手段已经很不错了。只要扫一眼战史丛书43卷附图第一,就能感觉出日本并不是忽视侦查的。但是密码被破译导致被伏击这种事情是无法预料的。

以42年上半年的情况,选择日本掌握下的战区让美国人来决战,是不太可能的。即使是选择了中途岛,很多人仍然担心美国舰队不会出击。

斯普鲁恩斯也好,南云也好,其实都是一样。如果发生了惨败,自然就成了责任人。如果什么都没发生,即使作战中问题很多,也不会有什么后果。
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 楼主| 发表于 2014-7-18 09:13 来自手机 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-18 08:29
中途岛并不是没有侦查手段,而是对于美国舰队出击的时机判断失误。计划是先占领中途岛,然后靠水侦、中途 ...

中途岛和珊瑚海不同,空间太大,且没法迅速建立水机基地延伸侦查幕(敌方基地存在),潜艇幕的重要性大大提升,但潜艇部队因为种种客观主观因素无法在第一阶段提供侦查幕庇护(数量不足是硬伤,过度使用导致状态不佳地拖延导致最糟状况)

当美舰队在第一阶段出现时,MI作战就注定陷入混乱,而计划的软肋导致这是无法避免的,最糟的就是一线部队对此的茫然。

在己方可用侦查力量不足时,选择较小空间战区是自然选择,以压缩空间来保住必要侦查覆盖,珊瑚海是个有趣实例,无论日军侦查力量犯下多少失误,但有力阻止了美方对机动部队的奇袭可能。联合舰队的选择明显行政需要强于作战需要。

斯普鲁恩斯的优势在于他得到沃克伍德的有力支持,他有着南云所没有的先期预警,这注定他不会重蹈覆辙。

少将

十一年服役纪念章

发表于 2014-7-18 11:38 | 显示全部楼层
jerrydong 发表于 2014-7-18 09:13
中途岛和珊瑚海不同,空间太大,且没法迅速建立水机基地延伸侦查幕(敌方基地存在),潜艇幕的重要性大大 ...

我说的水侦基地,是指中途岛攻成功后建立的基地,帮助发现预想中会出击的美舰队。另外日本有过从威客起飞二式大艇侦查中途岛东北和东部的计划,但是因为起飞距离限制了油料携带量未能实现。

潜艇的问题我基本同意你的看法。散开线离开中途岛太远而且有明显的漏洞,不如布置到离中途岛近一些的位置并缩小散开线之间的缝隙。

美舰队突然出现导致南云进退失据,这是实战的进程,但故事不是那么简单的。对比一下印度洋作战,实际上南云4月5日差点被英国舰队夜间雷击,而且他不知道有两艘航母在附近,这比中途岛迟来的报告还差。4月5日晨的索敌比6月4日更差,发现了两艘重巡后五航战换弹几小时没有完成,结果未能出击。这些还是在南云在4月4日晚已经明确知道自己被发现的前提下。然而,指责南云中途岛指挥不当的人很多,指责印度洋作战有严重问题的人却很少。对中途岛有些了解的人都看过机动部队的索敌图,但是4月5日晨的索敌图从来就没有人绘制过。这就是我所说的,一旦出了大败仗,各种“如果”、“本来应该”、“计划中xx有问题”都会冒出来,其中或多或少会有事后诸葛亮的成分。另外,美国人的表现其实也不怎样。2、3月间的几次航母编队突袭中,美国航母在攻击的当日早晨没有任何索敌行动。如果日本得知了美国的计划,那么很可能会出现美国航母被击沉时还不知道对手在哪里的结局。

抱歉以上离题(马里亚纳)了。
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十年服役纪念章

 楼主| 发表于 2014-7-18 12:24 | 显示全部楼层
genie854 发表于 2014-7-18 11:38
我说的水侦基地,是指中途岛攻成功后建立的基地,帮助发现预想中会出击的美舰队。另外日本有过从威客起飞 ...

11航战在库雷岛建立基地,依赖于机动部队在4日压制掉中途岛航空队,这就决定了登陆前的敌情预警完全依靠潜艇幕,这个漏洞太麻烦了。历史上发生了美舰队从北部潜艇幕通过未能发现的最糟窘境,如果美方未破解密码,如果正好有支特混舰队在中途岛东北方巡航,那么也可能在午后偷袭机动部队,但这只会导致些不必要损失,尚可接受。如果有支特混舰队在约翰斯顿岛北面巡游,那么恶心的情况就来了,近藤、栗田、西村和田中都可能被中途岛方面诱导的该部袭击,那么瑞凤和11航战很可能被吃掉,而机动部队还救之不及,这个局面就太难看了,中途岛这个战场对于联合舰队6月现有力量而言,太广大了,难以掌控。

印度洋攻略中机动部队的表现绝对糟糕一航舰司令部在4个月了总是重复对港口基地袭击,指挥部署上却全无长进,对于有一定实力的东印度舰队缺乏足够警惕。源田才华是有,可惜初期未遭挫折,后期直接离任,否则看他对中途岛战训总结,还是可以期待的。美方从12月到4月就是不断试错(特混舰队作战能力各方面都不如,连防空都错漏百出),真是运气好,双方没有交手,否则美方机会太少

完全没事,日美双方航母战术都是根据实战试错和自身技术发展一步步发展起来的,理清关联脉络还是很重要的

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