1942年11月12~14日 戦艦・霧島 乗組み 城野光昭 (九死に一生)
再度ヘンダーソン飛行場奪還攻撃をするため(第一回 艦砲々撃10月13日 戦艦金剛・榛名、砲撃成功 )戦艦「比叡」と 「霧島」(当時 第11戦隊) を主力とし、別名・挺身部隊といい昭和17年11月12日(ガ島の艦砲攻撃 は第二回目を予定していた)夜半近く、ガダルカナル砲撃のために接近したと き日本の攻撃を阻止せんとする艦隊に遭遇、砲撃戦となり狭い海峡内での日・ 米艦・艇いり乱れての格闘夜戦となったのでした。
ただここでは、筆者が配乗していた戦艦霧島において、目撃体験した戦況ほか 戦後関連記録(含むIT資料)などにより想起し得たものについて、その概略 を述べることにしたものです。
それは、ソロモン海での最後的な戦いであり(12と14日と前後2回で、旗 艦であった戦艦比叡は12日激戦、操舵部被弾、応戦13日午後11時頃に 沈没)ましたが殊に14日は、残る戦艦・霧島ほかは、吾が[攻撃挺身隊・ 戦隊]の、ガ島を砲・撃せんとする最後のチャンスだったのですが、無念なる かな天は味方せず、後記のとおりでありますがーーー、 一方で、戦艦群と離れた所定海域の第4水雷戦隊の駆逐艦・朝雲(旗艦)と五 月雨・照月ほか第2水雷戦隊の夕立などは、この日午後8時30分、既に敵・ 敵戦艦4隻ほかに遭遇・視認。砲・雷撃戦となっていて壮烈な格闘戦を展開。 阿修羅の交戦となり善戦したのでありました。
その後、わが戦艦霧島(筆者は電信室)は進路変更してきた敵戦艦ワシント ンと、サウスダコタ)に遭遇し午後9時12分に日本艦隊は生き残っていた 「霧島」ほか、重巡洋艦「愛宕」「高雄」、軽・巡洋艦「長良」と駆逐艦、 照月・五月雨・夕立など計6隻の体制(第3戦隊)で敵を視認し、直後砲撃 戦を展開したのです。
双方熾烈な雷・砲撃戦を展開し敵は戦艦サウスダコタが大破(ほか省略)され たがこのとき当方、霧島に被弾(艦橋基部に位置する電信室ほか周辺砲座、後 方機関部・操舵部に被弾破壊さる)爆破され(サボ島の東方海域)戦闘不能に 陥り、双方とも戦域を離脱したのでありました。 (午後10時まえ、この壮烈な大夜戦は終る)
敵は40センチ(当方36)砲弾(レーダー射撃)を浴びせ、彼我まことに壮 絶な鋼鉄の挌闘夜戦となったのでした。この激戦は約7分で決着しました。
戦況の凄さはもう筆舌には尽くせない程であったのです。ただ、この戦闘の詳 細は不明もあり、双方の戦果・損害等など不祥と云われますが、ただ、この挌 闘夜戦中敵味方不明のため一部、同志打ちの事態もあったと云われています。
また両軍の艦船合計は25隻と云われ、そして、闇夜の中その最短距離は10
00メートル前後だったとも云われていて、飛び交う曳光弾や探照灯により、 闇は引き裂かれたような有様で、その状況は壮絶そのものだったのです。
なお、わが戦艦で体験した被弾後の一面については次の様でありました。
この14日の挌闘戦の概況は、上記の
とおりでーーー
彼の主砲々弾の一発は、戦艦全体から
見て中心部にあたる、前部・無線電信
室(筆者 戦闘配置)に命中・破壊さ れ筆者を除く、全員(約8名)が壮烈に
戦死したのであります。 合掌
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