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雾岛号电信室少年兵城野光昭回忆

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下士

十二年服役纪念章旗手

发表于 2015-4-2 16:04 | 显示全部楼层 |阅读模式
1942年11月12~14日
戦艦・霧島 乗組み 城野光昭 (九死に一生)            
再度ヘンダーソン飛行場奪還攻撃をするため(第一回 艦砲々撃10月13日
戦艦金剛・榛名、砲撃成功 )戦艦「比叡」と 「霧島」(当時 第11戦隊)
を主力とし、別名・挺身部隊といい昭和17年11月12日(ガ島の艦砲攻撃
は第二回目を予定していた)夜半近く、ガダルカナル砲撃のために接近したと
き日本の攻撃を阻止せんとする艦隊に遭遇、砲撃戦となり狭い海峡内での日・
米艦・艇いり乱れての格闘夜戦となったのでした。 
ただここでは、筆者が配乗していた戦艦霧島において、目撃体験した戦況ほか
戦後関連記録(含むIT資料)などにより想起し得たものについて、その概略
を述べることにしたものです。
それは、ソロモン海での最後的な戦いであり(12と14日と前後2回で、旗
艦であった戦艦比叡は12日激戦、操舵部被弾、応戦13日午後11時頃に
沈没)ましたが殊に14日は、残る戦艦・霧島ほかは、吾が[攻撃挺身隊・
戦隊]の、ガ島を砲・撃せんとする最後のチャンスだったのですが、無念なる
かな天は味方せず、後記のとおりでありますがーーー、
一方で、戦艦群と離れた所定海域の第4水雷戦隊の駆逐艦・朝雲(旗艦)と五
月雨・照月ほか第2水雷戦隊の夕立などは、この日午後8時30分、既に敵・
敵戦艦4隻ほかに遭遇・視認。砲・雷撃戦となっていて壮烈な格闘戦を展開。
阿修羅の交戦となり善戦したのでありました。

その後、わが戦艦霧島(筆者は電信室)は進路変更してきた敵戦艦ワシント
ンと、サウスダコタ)に遭遇し午後9時12分に日本艦隊は生き残っていた
「霧島」ほか、重巡洋艦「愛宕」「高雄」、軽・巡洋艦「長良」と駆逐艦、
照月・五月雨・夕立など計6隻の体制(第3戦隊)で敵を視認し、直後砲撃
戦を展開したのです。

双方熾烈な雷・砲撃戦を展開し敵は戦艦サウスダコタが大破(ほか省略)され
たがこのとき当方、霧島に被弾(艦橋基部に位置する電信室ほか周辺砲座、後
方機関部・操舵部に被弾破壊さる)爆破され(サボ島の東方海域)戦闘不能に
陥り、双方とも戦域を離脱したのでありました。
(午後10時まえ、この壮烈な大夜戦は終る)

敵は40センチ(当方36)砲弾(レーダー射撃)を浴びせ、彼我まことに壮
絶な鋼鉄の挌闘夜戦となったのでした。この激戦は約7分で決着しました。
戦況の凄さはもう筆舌には尽くせない程であったのです。ただ、この戦闘の詳
細は不明もあり、双方の戦果・損害等など不祥と云われますが、ただ、この挌
闘夜戦中敵味方不明のため一部、同志打ちの事態もあったと云われています。

また両軍の艦船合計は25隻と云われ、そして、闇夜の中その最短距離は10
00メートル前後だったとも云われていて、飛び交う曳光弾や探照灯により、
闇は引き裂かれたような有様で、その状況は壮絶そのものだったのです。

なお、わが戦艦で体験した被弾後の一面については次の様でありました。

この14日の挌闘戦の概況は、上記の
とおりでーーー
彼の主砲々弾の一発は、戦艦全体から
見て中心部にあたる、前部・無線電信
室(筆者 戦闘配置)に命中・破壊さ
れ筆者を除く、全員(約8名)が壮烈に
戦死したのであります。 合掌 

下士

十二年服役纪念章旗手

 楼主| 发表于 2015-4-2 16:05 | 显示全部楼层
九死に一生
~破壊される瞬時の状況~( 城野 電信員、 電信室にて 被弾・負傷 )
あの時、戦闘(砲撃)が開始され間もなくのことだった。シューツという音と
同時に室内は真っ暗闇となり瞬間(故郷の養父母が脳裏に浮かぶ)配電盤だけ
が火花を噴き辺りは倒壊した室内・無線機類で身動きも出来ない模様。
それもその筈、脱出しようにも首・片腕・片足が動かず、微かに見えた出入口
(配電盤より火花が。
また激しい衝撃でドアーのハッチが外れ、僅かに開いていた)の方へ手探りで
出ようにも、行く手は見えず戦友達の声・姿はなく (戦死)破壊物に阻まれ、
もがき乍ら足を引きずり這い出たのです。
するとその時、運よく看護兵に助けられ階下にある大治療室に運ばれたのです
が、その頃になり止血部の数箇所に疼痛が走り、次第に苦しくなって呻吟した
ものでありました。
[凄く水が欲しかった] 右肩甲骨複雑骨折・鎖骨骨折・左足膝コク部断片創
[重傷]
この治療室内では酷い重傷者の苦しみ叫ぶ声が絶間なく手術台は血だらけで、
あたかも地獄絵の様相を呈していたのです。

(数人の軍医と数十人いや、それ以上に重傷者は増し、その処置などほか思う
だけでも身震いです)そして辺りは、ほの暗かったが、この片隅にうずくまり
必死に止血部の疼痛に耐えながら経過しました。
そして2時間近くも経っただろうか、総員撤去の伝達があり、動けない重傷者
たちは皆、屈強な兵士達に担がれ上甲板へと救出(移動)されてゆきました。

[ 平常時・総員点検の定位置(右舷最先端)へ、鎮火後の煙り漂う破壊さ
れた険悪な道のりを暗闇のなか長時間さ迷いながら、他人の命と身体をイッキ
に背負ってくれた頑強な彼の兵曹・氏に深甚の感謝を捧げるものです ]

次々に命中した敵弾のため、上甲板の砲座や各戦闘・諸設備などの全ては、ち
ぢに破壊されていて真夜中の星あかりとはいえ、瀕死の重傷者も垣間見られて
真に無残なものでした。(この時、傷つきながらも最期まで、死力を尽くした
であろう乗組員の鎮火で、艦上にはクスブリの他は一切、火気は見られなかっ
たのです)
この様な海戦では、陸戦と違い、狭い室内(戦闘配置)での爆裂に遭った時、
これは命ある限りの話しであるりますが、その場所以外の状況など知る由もな
いもので極めて視野の狭い、そして空間での斗い(瀕死の孤独)であることを
体験したのでありました。
でも当時、祖国(世界)の平和を念じながら、壮烈に殉じていった多くの純心
な若い戦友たちの斗い等々を想います時、今日もやはり同じ人間として、これ
には一種云い様のない感じ(生きながらえた)にさせられてしまうものです。
と同時に平和の尊さを思い知らされたものでありました。
戦艦・霧島の最期

兵「ツワモノ」どもが夢 沈む  [  沈没寸前・霧島で最後に飛び込む・城野 ]
重傷に喘ぎながら聞いた、総員撤去用意の命令によって、総ての乗組員たちは
(含む負傷者)は退去(艦外に去る・海へ飛びこむ)に先立ち、人員点呼
(調べ)をかねてか、前記、上甲板分隊点検の既定位置(通信科員は右舷の舳
先部分)へ集合しつつあり・・(筆者は、おんぶされたままブラブラする脚の
疼痛は限界だった)おんぶされたまま、さ迷い、その位置へかろうじて到着し
たのでした。ーーー
[ ここまで背負ってくれた彼の屈強な兵曹・氏(氏名不明)に重ねて深甚の感
謝を捧げるものです]
するとそこには同期生(艦橋・無線電話員)の笠置「カサギ電話員」が居て、
直ぐさま彼に背負い代わられたが、他の者達の顔も定かでなく艦・退去直前の
雑踏で過ごすうちに、艦は次第に後部へ傾き乍ら左へ倒れ始めたのです。
傾斜は次第にひどくなり、人員調べも束の間、この前甲板に集まっていた乗組
員ら大多数は薄暗闇の中、声かけ合う間とてなく海へ飛び込み脱出した模様。
その後気付いた時には一人筆者だけが残っていたのです。
(ここ右 舳先の部位は艦が後部から沈み左へ倒れれば最後まで残る部位)
時々刻々艦の傾きはひどくなり、星明かりだけで微かに見える艦橋が45度近
くにもなろうとする頃ーーーこの期に臨み、身体は動く自信もない筈の自分だ
っが、動ける方の力を振り絞り、無我夢中で「ビルジ」「注」を登り、艦側
(面)を独り滑り降りたのでした。動かせるのは、左手と右足だけ、そして出
血も、また激痛も忘れたかのようでありました。ここで死んでなるものか。と
、もう必死のモガキだったのでした。
このとき、沈没時の大渦に巻かれて命を失う戦友も多かったと云われる中で、
真に天の助けを得たものでした。海中へ相当に潜ったようだったのに浮かんだ
のでした。
このときこそは確かに生きてるんだと云うことを実感したのです。


そして、とっさに眼にしたものは、ほんの先程まで全ての命運を懸け戦ってい
た戦艦・霧島の最期の姿で、薄暗闇のなかで目撃した沈没の瞬間でした。
瞬く間に海底の藻くずへ(その時、ズシンという大音響を体感)スゴイ幕引き
の現実。アットいう間の出来事でありました。
海上に浮かびながら見渡すと、先に艦を脱出した多数の戦友たちが、そこここ
に泳ぎながらも、いろんな意味の別れを惜しむかのように見え、感無量であり
ました。
そして、微かに見える救助艇(駆逐艦)を目ざしながら泳いでいたのです。
すると、自分もいつの間にやら丸太を見つけ掴まる事が出来たのでしたが、こ
れこそ正に天佑でありました。そして、この時ばかりは負傷部分の痛みは、不
思議にも忘れていて、長い時間(凡そ2時間)を泳ぎきったのです。
それから、救助艇(駆逐艦 ・照月 ) に到達したのも最後の一人だったのです。
(南十字星は 殆ど真上に見え、海上の波は静かだったのを記憶)
実は、この南海(サボ島の沖)での海(塩)水は、この季節とはいえ温かく、
重傷の我がキズを癒してくれたかのようでして、出血は殆ど止み、応急処置の
抱帯は外れてしまって、一糸纏わぬ姿で救助されたのでした。
  以上のことは、戦争の悲惨さだけを語ったものではありません。ただ、
自分が体験し見せつけられた冷厳な事実、それもほんの一部を述べたに
過ぎません。
「注」
ビルジ(bilge)船底の湾曲部のことであるが当時海軍では、敵の魚雷攻
撃に備え、その艦艇の側面に装甲の突出部分を設けていた。この部分が凡そ2
メートル近くあり、例えば、45度に傾いた場合なら、それなりに大変な障壁
(坂)が出現することになる。(ここを登坂)

列兵

九年服役纪念章

发表于 2015-4-3 16:36 | 显示全部楼层
Type94 发表于 2015-4-2 16:05
九死に一生
~破壊される瞬時の状況~( 城野 電信員、 電信室にて 被弾・負傷 )
あの時、戦闘(砲撃)が ...

懇求譯文。

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