全長 317.5m
全幅 58.2m(船体40.9m)
基準排水量 8万7320トン
満載排水量 9万3220トン
機関 25万6000馬力(艦本式タービン4基4軸)
速力 34.62ノット(公試時)
武装 62口径12.7センチ連装両用砲8基
長8センチ両用砲単装10基
ボフォース40ミリ機関砲4連装14基
30ミリ4連装機関砲12基
15センチ28連装ロケット砲4基
装甲 舷側250ミリ 甲板178ミリ その他50ミリ
航空機 152機(常用110機 補用30機 予備12機。双発艦載機の搭載を前提)
同型艦「大鳳」「祥鳳」
【解説】――米国ローズヴェルト政権の軍拡路線に対抗する形で開始された第3次海軍中期防衛装備計画、通称「マル3計画」における目玉として2隻が建造された超大型空母。
1930年代の研究により建造された「翔鶴」型空母の設計を発展させ、日本海軍の基本戦略である「敵軍港ならびに泊地強襲」を容易にするために双発機の運用を前提に計画された。
巨大化しつつある海軍艦艇を少しでも安く揃えるために海軍艦政本部は、警備艦「松」型の建造実績を受けて量産効果の導入による艦隊整備予算の圧縮を計画。
同時に「大和」型用として開発された新型装備も、旧式艦艇改装による全面導入や新型艦艇の共通装備としての量産化が図られた。
のちの米国陸海空軍が導入する「ウェポンシステム」、日本名「統合装備計画」方式
の嚆矢となるアイデアは、本艦の計画段階におけるアイデアからはじまったことは特筆すべきだろう。
計画段階でのちの「大和」型戦艦との共通化が図られ(船体構造材および装甲板など)、船体はほとんど「大和」型と同様である。
このため、新型空母に要求された「陸上基地からの航空攻撃に耐え、反復攻撃を行う」という目標と、「『白根』型の2倍の攻撃能力を持つ」という要求とを両立することができた。
上記の目標のため、航空母艦としては異例の重装甲を持ち、1トン爆弾の甲板直撃には十分に耐久し1.5トン爆弾については格納庫への被害を極限。
魚雷については細密化された防御区画と三重底の採用、さらには舷側装甲の保持により片側に22本の命中までなら航行が可能となっている。
「大和」型戦艦の優れた防御区画を受け継いだおかげで、反跳爆撃などの戦法に対しても対応ができた。
機関は、「大和」型戦艦と同様のディーゼルエンジン採用も考えられたが整備上の都合や速力発揮の面から補給艦の随伴も考慮したうえで蒸気タービンのみの採用となっている。
船体の最大の特徴は、「白根」型航空母艦の第3次改装により実験が行われた交差式飛行甲板――英海軍のいうアングルドデッキの採用であろう。
これに加え、それまでは故障の多かった蒸気射出機(カタパルト)を全面的に再設計し、双発艦上機の運用能力を持たせている。
英国の航空母艦「イーグル」で試験された舷側のエレベーターと開口部の保持も全面的に採用されているが、それでも甲板中央に大型エレベーターを残している。
この大型エレベーターは運用上の都合から残されたものの、それが仇となり防御に関しては隙がないと思われるほどの重防御が施されていながら、このエレベーターとその下の格納庫近辺に配されたガソリンタンクが最大のウィークポイントとなった。
第2次世界大戦中にはソ連軍の体当たり攻撃や大型有人誘導爆弾(TB3などの超大型機から投下される)に集中的に狙われ大損害を出したために改装が決定。
1番艦「大鳳」は工事が完了していたが、太平洋戦争には間に合わず、やむをえず燃料タンク周囲へのコンクリート充填などの対策が行われたが、数発の4000ポンド爆弾の命中によって戦闘能力を喪失するなど、大きな損害を受けた。
しかし、その優れた防御力と航空機運用能力を評価されたために日本海軍は米海軍への対応のために増勢がなされた「越後」型戦艦に続き本級を更に再設計した「葛城」型航空母艦を建造。のちの日本空母の基本となっており、その意義は大きい。
なお、長8センチ両用砲は、「竜譲」沈没を教訓にして本級用に開発され、これが逆に他の水上艦へ採用されることになった珍しい例である。
【英国】
「ライオン」級高速戦艦2隻(18in×3×4)
「キングジョージ5世」級戦艦5隻(17in×3×3)
「ノーザンブリア」級高速戦艦4隻(17in×3×3 別名「ヘプターキー(七王国)」級)
「セント・アンドリュー」級戦艦4隻(20in×2×3 別名「聖人」級)
(R級以下は装甲・主砲塔撤去の上保管。後に空母に改装)
「ジェットランド」級装甲艦4隻(13in×4×3)
「トラファルガー」級装甲艦2隻(13in×3×3)
「イーグル」級空母1隻
「クイーン・エリザベス」級空母5隻
「イラストリアス」級空母2隻(3隻建造中)
「ジブラルタル」級空母0隻(3隻建造中、2隻未起工)
英国の戦艦の画期となったのは、日本の八八艦隊計画艦や米国のダニエルスプラン艦隊計画艦に対抗すべく建造された「N3」の計画番号をふられた「セント・アンドリュー」級であった。
1921年に1番艦が就役したこの艦は、大戦中の超大型巡洋戦艦「インコンパラブル」用に製造された20インチ砲を連装砲塔に搭載、なおかつ砲塔を艦橋の前後に集中配置し煙突を後部に回すことで装甲防御区画を局限、わずかに5万トン弱の船体にこの巨砲を搭載することに成功していた。
また、艦橋も従来の三本脚櫓型から塔型艦橋に変わるなどこののちの英国戦艦の基本形を作った。
また、本級の主砲搭載数の少なさから同型の船体に小ぶりながらも17インチ砲を搭載した高速戦艦「ノーザンブリア(G3)」も同時に建造され、8隻で従来の主力艦R級とクイーン・エリザベス級とあわせて日米の戦艦を圧倒する予定となった。
しかし、戦後の不況からこの計画は転換された。日英同盟を堅持しつつ太平洋・大西洋の両面から米国に対抗するという方針となったため、維持費のかかる上に旧式化しつつあるR級やクイーン・エリザベス級以下を全廃しこれらの新造戦艦を維持することに決したのである。
また、植民地の警備艦隊の旗艦として通商破壊や巡洋艦部隊の旗艦としての装甲艦、新型巡洋艦や大型駆逐艦も整備されて実質的な戦力の維持も図っている。
このあたり、さすがは大英帝国であるといえよう。
こうして、10年あまりの「海軍休日」を英国海軍は過ごす。
そして英米対立の時代に入ると、米国の公共投資方針を真似し、本格的にR級の代替として「キングジョージ5世」級戦艦が建造される。
同時に、主力艦になりつつあった航空母艦の整備のためにクイーン・エリザベス級戦艦の武装を撤去した船体が用いられる。
第2次世界大戦開戦時の大英帝国海軍は、こうして空海ともに非常にバランスのとれた戦力を保有できていた。
惜しむらくは、日本の「翔鶴」型に準じた「イラストリアス」級空母とシンガポールで建造されている更なる大型の「ジブラルタル」級の戦力化が間に合っていない(艤装の最終段階だった)ことだった。
【米国】
「トマス・ジェファーソン」級0隻(20in×3×3:2隻建造中、2隻起工済み)
「モンタナ」級戦艦4隻(18in×3×4:2隻建造中)
「アイオワ」級戦艦6隻(18in×2×4)
「ワシントン」級戦艦10隻(17in×2×4装甲艦から艦種変更)
(以上条約後の艦艇)
「レキシントン」級巡洋戦艦4隻(17in×2×4)
「サウスダコタ」級戦艦4隻(17in×3×4)
「コロラド」級戦艦4隻(17in×2×4)
「アラモ」級装甲艦3隻(13in×3×3:1隻建造中)
「インディペンデンス」級空母0隻(2隻建造中)
「エセックス」級空母9隻
「エンタープライズ」級空母4隻
米国は、実際のところ第1次世界大戦に参戦しそこなったために欧州各国からハブられたにもかかわらず金だけはふんだくられた反動から海軍の整備に力を入れたようなものだった。
同国には太平洋と大西洋の二大海軍国が同盟関係にあるという戦略環境から常に大規模な海軍戦力の整備の必要性を認識していたが、これは列強の最後の草刈り場になっていた中国大陸市場への参入という悲願に片足を突っ込みながらも日本の積極的妨害と英国の後ろからの妨害に実力での対抗を目指していたからに過ぎない。
こうした米国民主党の積極的な海外進出方針にのっとり、三年計画ことダニエルスプランは立案されたのだがこれは日英独が画策した東京海軍軍縮条約で一定の枷をはめられることになった。
確かに米国の艦艇は強力だが、対抗すべき中国大陸正面の敵たる日本海軍の主力戦艦たちは、米国海軍のそれに大口径の16インチ主砲の門数でなんと互角だった。
その上、英国海軍は旧式戦艦をまとめて廃棄したうえで18インチや20インチという頭のねじが外れたような大口径砲を搭載しているのだから海外への外征を行う上でこれほど困るものはない。
米国はことあるごとに軍縮条約の破棄を望むうえ、強大な日英と新たに加わった独海軍に対抗するために数の少ない補助艦艇に大量の魚雷など多大な武装を搭載し、強力な侵攻戦力を作り上げる一方でロンドン条約で追加された装甲艦条項にのっとり条約の範囲内の主力戦力「ワシントン」級を、条約破棄後は主力戦艦なみの主砲を搭載する予定で量産しようと計画した。
世界恐慌はこれに一時的にストップをかけたが、奉天軍閥駐留の米軍部隊が独走した満州事変以後の軍事費増大とローズヴェルト政権下でこれは量産され、なんと一気に10隻が起工された。
これで弾みがつき、米国は軍縮条約を破棄する一方で36年の華南・華北政府の全面衝突後は文字通り太平洋と大西洋を制する「両洋艦隊」の建造に狂奔した。
「アイオワ」級「モンタナ」級を巨大な工業力で「量産」する一方、旧式戦艦の主砲も日本海軍のそれにのっとりひとまわり大きな17インチ砲に換装し戦力の強化にも腐心。
まるで片手間のように空母も量産していた。
しかし、こうして整えられた軍備は巨大であったが補助艦艇は軍縮条約いっぱいにまで主力艦を建造し、なおかつ高性能艦のモデルチェンジを行う程度であっためにこの巨大な主力艦隊にとっては満足な数をそろえているとはいえない。米国海軍にとっての補助艦艇は決戦前まで輪形陣で護衛を行い、一度の決戦において一気に投入し魚雷や砲撃で敵艦隊を混乱させられるだけでよいと考えられていた。
そのため、統制がとれなくなるかもしれないほどの大量の駆逐艦や中型巡洋艦の整備は人員と資材の無駄だと考えられていた。
米海軍にとり戦争とは侵攻するもので、防御するものではなかったのである。
しかし、莫大な工業力で量産された新型艦艇の群れの攻撃力は世界でも随一といってもいいだろう。
この巨大な戦力こそが、世界を短くも激しい大戦に巻き込んだともいえる。 【日本】
「越後」型高速戦艦2隻(20in×3×4:2隻建造中)
「大和」型高速戦艦4隻(20in×3×4)
「紀伊」型高速戦艦2隻(19in×3×3)
「天城」型高速戦艦2隻(19in×2×4)
「加賀」型高速戦艦2隻(19in×2×5)
「長門」型高速戦艦2隻(16in×3×3)
「筑波」型装甲艦5隻(13in×4×4)
「葛城」型空母3隻(1隻建造中)
「大鳳」型空母5隻
「翔鶴」型空母4隻
「白根」型空母2隻
日本海軍にとっての主力艦たちは、海外の巨大な戦艦部隊と天空から降り注ぐ恐怖への対抗策であった。
黒船により近代を開幕させた日本人のトラウマといえばそれまでだが、日本海軍は一定以上の予算をもって巨砲を搭載した主力艦を整備している。
長門型以降の主力艦である八八艦隊計画艦は、日本特有の方針である巨砲による隕石迎撃を成し遂げるべく開発された「陸上配備型大口径砲の搭載を前提とした対独米艦隊急速建造」という第1次世界大戦に遭遇した日本人の発案にはじまり、結局はこの砲の熟成を待たずにとりあえずの16インチ砲搭載で落ち着いた(※軍縮条約明けに改良型48センチ砲をちゃんと搭載したが、技術の発達の結果防御力とのバランス面ではアンバランスになってしまった)という泥縄的なものだった。だが、「自らが持つ最大の大砲を最高の船に積む」という方針が海外に与えた影響は絶大であった。
しかし、関東大震災の結果として国内をまずは優先するという方針が打ち出され、東京海軍軍縮条約を自ら提案し戦力比を固定させるなど、当時の日本海軍はある程度思い切りはよかった。
何しろ、次なる敵となる勢力は米国以外には存在せず、米国と戦う事態は日本人は想定していなかったのだ。
この状況は米民主党政権の成立で一変する。辛亥革命期から孫文に、ついで華南政府に肩入れする米国は露骨に自国による中国大陸市場独占を国策とし、大陸の出入り口である日本列島に圧力をかけはじめたのだ。
これは、時のローズヴェルト大統領が海軍びいきであったためにその主敵とされていた日本海軍を敵視していたためともいわれているが、実際は日英同盟による対中不干渉政策への反発ゆえだった。
これに対抗する形で、帝都復興と内需拡大に成功した日本は海軍力の再整備に力を注ぐ。
重視されたのは、大戦後英国の哨戒圏を肩代わりするかわりにその市場へ参入していたことから、哨戒圏の広い航空機たちや汎用巡洋艦、駆逐艦など。
続いて航空機でも撃沈に多大な手間がかかるであろう新型戦艦を打ち破れる巨大かつ空母機動部隊を護衛できる巨大な新型戦艦が建造を開始された。
とはいっても、比重はやはあり空母機動部隊とその艦載機たちに置かれ、1940年代初頭からは明らかに航空母艦を集中運用する機動部隊やそれに搭載される大型艦上攻撃機や爆撃機が優遇され始めていた。
が、どちらか一方に絞りきるには航空機の性能はまだ中途半端であったし戦艦たちの防御力は巨大だった。
そのため、第2次世界大戦開戦時には日本海軍は戦艦や水上艦と空母にそれぞれ半分ずつリソースを割り振った海軍
となっていた。
奇しくもそれは英国海軍と同様で、第2次世界大戦の戦訓を得た後はこれをもとにバランスのとれた機動部隊・水上部隊の連合編成へ移行していくことになるのである。 【ドイツ】
「フォン・モルトケ」級戦艦2隻(18in×2×4)
「バルバロッサ」級戦艦2隻(16in×3×4)
「ビスマルク」級戦艦2隻(16in×2×4)
(以上、条約明け戦艦)
「ブランデンブルグ」級戦艦2隻(16in×2×4)
「シャルンホルスト」級装甲艦5隻(16in×2×3)
「グラーフ・ツェッペリン」級空母3隻
「アドラー」級空母2隻
ドイツ海軍は第1次大戦において大きな活躍をしたものの、戦後の経済的危機に際しては整備が後回しにされていた。この状況が改善するのはドイツ帝国が本格的な回復軌道に乗り、日本やアルゼンチンとともに英国のポンド・スターリングブロックに参入することになるヒトラー宰相政権下においてであった。
当時、米仏はもとよりソ連とも対立していた英国はバルト海とフランス沿岸における補助戦力としてのドイツ海軍に期待をかけ、ドイツもこれに応えた。
そういった形であるために、ドイツ海軍は日英のような外洋海軍ではなく内海型の海軍であるといえよう。
そのため、防御力を重視した重厚な艦艇を配備し、ソ連海軍やフランス海軍に対抗する。
これらは通常のひとまわり下の口径の主砲を積んでいるものの、いずれもドイツらしく長砲身かつ強力な砲弾によりひとまわり上の艦とも対等に戦えるといわれる。
開戦時は増強を続けるソ連陸軍部隊に対抗することに予算が割かれ、海軍は「フォン・モルトケ」級以降の新造戦艦は建造できてはいなかった。 【フランス】
「アルザス」級戦艦4隻(17in×4×4)
「マルヌ」級戦艦4隻(17in×4×3)
「ノルマンディー(Ⅱ)」級戦艦2隻(17in×4×2)
「ダンケルク」級装甲艦4隻(13in×4×2)
「ペタン」級空母4隻
「ネイ」級空母2隻
フランスの目標は、ドイツへの復讐である。
ことに、30年代に成立した人民戦線内閣はこのスローガンを声高に叫ぶ一方で米国との友好関係を推進。
アメリカの「軍需による公共投資」をまねて強力な戦艦部隊の復活を狙った。
フランス艦の特徴は、4連装にまとめたことでスペースを節減し、その分を装甲にまわした防御力と、高初速の大重量砲弾を投射しての近距離砲戦である。
そのため、いずれも主砲は米国からの技術提供によるものでありながらも砲身は長く、ドイツ艦のそれを初速では大きく上回っている。
難点はやはり第1次大戦の痛手から立ち直っていないことと、社会主義政権特有の効率の低下である。
フランス経済は軍需というカンフル剤があっても立ち直れず、1943年には破綻の半歩手前まで追い詰められていた。また、マッカーサー政権の成立に焦りを深めたフランスは、ついに軍の暴発という形で第2次世界大戦の幕を切って落とすことになる・ 【ソ連】
「ソビエッキー・ソユーズ」級戦艦8隻(16in×3×3:1隻戦没、1隻艤装中)
「クロンシュタット」級巡洋戦艦10隻(13in×3×3:1隻戦没)
「ウラジオストク」級空母5隻(2隻建造中)
ソ連は、日本海海戦以降、革命などで失われた海軍の債権をトロツキーの「世界革命」の重要課題と位置づけ、
一気に戦艦10隻、巡洋戦艦15隻という途方もない数の海軍艦艇を建造する計画を立て、実行した。
この動きは条約明けの欧州諸国を緊張させ、結果としてドイツやイギリスの反応を呼び起こすことになる。
開戦時にはこの計画のために建造された艦艇はほぼ実戦配備につき、700万ともいわれる膨大な数の陸軍とともに第2次世界大戦の開戦とともに欧州赤化をめざし進軍をはじめることになった。
皮肉にも、その時の指導者はトロツキーによる排除を恐れ半分クーデターで政権を掌握したモロトフとかつての共産党の長老たちであった。 【イタリア】
「ジョゼッペ・ガリバルディ」級高速戦艦3隻(16in×3×3:1隻建造中)
「ヴィットリオ・ベネト」級戦艦4隻(16in×2×4)
「アクイラ」級空母4隻
イタリア海軍は、世界恐慌により一時は戦艦の建造を行えなくなるとも思われていた。
しかし、政権を掌握していたムッソリーニはドイツともども英国の軍門に降ることで経済を立て直したうえで、
東と西からくる蛮族からローマ文明圏を守ると称して海軍の再建を開始した。
とはいっても彼らの戦力は地中海を超えることはなく、その上でできる限り強力かつ使い勝手のいい戦力を整備している。その性能は、過剰武装気味なフランス海軍にとっては侮れない。 【トルコ】
「スルタン・スレイマン」級戦艦1隻(16in×3×4:1隻建造中)
「スルタン・バヤズィト」級戦艦2隻(16in×2×4)
「イスタンブール」級空母2隻
第1次大戦後、ケマル・アタテュルク大統領のもとで再興の道を図るトルコにとり、黒海で増強されるソ連艦隊は脅威であった。
彼らは、軍縮条約明け直後にこれに対抗するために海軍戦力の再整備を決定。
しかし自国では建造が難しいことから、大戦末期の東欧戦争において繋がりを持っていた日本に戦艦の建造を発注。
日本海軍も主砲の換装により余剰となっていた戦艦「長門」型用の16インチ砲や装甲の予備を流用する形ではあったがこれに応え、1936年に
開戦時にはそれらと中小艦艇のほぼすべてがトルコに到着。運用が開始されていた。
なお、従来の主力艦「スルタン・ヤウズ・セリム2世」は役を解かれ、中華民国華南政府に売却された。
【中華民国 華南政府】
「孫中山」級戦艦2隻(15in×2×4:基本的にはR級の同型艦)
「華南」級戦艦0隻(12in×2×5:上海紛争で沈没)
【中華民国 華北(北京)政府】
「唐」級巡洋戦艦1隻(17in×2×4:米国の「レキシントン」級5番艦「ユナイテッド・ステーツ」)
中華民国の成立後、英国による支援が行われる華南の蒋介石率いる華南(南京)政府と華北(北京)政府が対立。
奉直戦争以後は奉天閥も入り、中国大陸は冷戦状態となっていた。
これが泥沼の軍閥抗争とならなかったのは、幸運のほかに米国とその他の国の対立、日本政府の無関心という状況があったからに過ぎない。
そんな中、表向きの正当たる華北政府は米国から露骨な支援の結果レキシントン級巡洋戦艦の軍縮により未成となった5番艦を入手。華南政府は華北に対抗すべく英国に対し戦艦の発注を行う。
この結果、英国は保管していたR級戦艦のうち「ロイヤル・サヴリン」と「リヴェンジ」を改装し、売却した。
また、華南政府はトルコから余剰となっていた戦艦「スルタン・ヤウズ・セリム2世」を購入している。
このうち後者は、上海事件において暴走する第3路軍とともに国連艦隊を交戦し、撃沈された。
【オーストラリア】
「アデレード」級戦艦2隻(15in×3×4)
「メルボルン」級巡洋戦艦1隻(18in×1×2:旧称フューリアス)
太平洋の軍拡に脅威を覚えたオーストラリアは、大戦でともに戦った日本海軍との結びつきを強める一方で、英国本国に対して戦艦部隊の常駐もしくは自国海軍での戦艦の装備を懇願。
これを受けた英国は、当時バルト海侵攻作戦用に計画されながらも余剰となっていた巡洋戦艦「フューリアス」をとりあえずは譲渡。
一方で、旧式となっており東京条約で廃棄を決定していた「R級」戦艦の砲身を利用したうえで新型戦艦「キングジョージ5世」級のテストベットとなる艦を計画。
これを建造した。
装甲が極端に薄いフューリアスはともかくこうして建造された「アデレード」級は満足のいく性能で、オーストラリアはとりあえずの満足を得た。
なお、略同型艦がカナダに配備予定である。 高速戦艦「大和」型
全長 317.5m
全幅 40.9m
喫水 12.1m
基準排水量 11万1300トン
満載排水量 12万4500トン
機関 25万6000馬力(ディーゼル・艦本式反動タービン4基4軸)
速力 31.38ノット(公試時)
主砲 52口径51センチ砲3連装4基12門
武装 58口径15.5センチ砲3連装2基
62口径12.7センチ連装両用砲12基
長8センチ両用砲単装8基
ボフォース40ミリ機関砲4連装19基
30ミリ4連装機関砲31基
15センチ28連ロケット砲5基 など
装甲 舷側520ミリ 甲板242ミリ 主砲塔630ミリ その他50ミリ(バルジ装着)
航空機 4機(最大7機 カタパルト2基)
同型艦 「大和」「武蔵」「信濃」「甲斐」
【主砲】
米国ローズヴェルト政権が東京およびロンドン条約の破棄を通告したことにより実働した第3次海軍中期防衛装備計画、通称マル3計画における目玉として4隻が建造された巨大戦艦。
その最大の特徴は、長砲身51センチ砲(98式乙砲‐改)の採用にある。
この砲の特徴は、当初から薬室を大重量徹甲弾と強装薬の使用することを前提に設計し、自動装填装置を砲の装備に付け加えていることである。
計画段階では50口径であったが実験により2口径砲身を延長。これによって近距離においてはフランスの「ダンケルク」級には劣るもののそれでも秒速1000メートル近い高速弾を放ち、弾道特性の変化によって中距離以遠では水平甲板ないしは砲塔天蓋に砲弾が命中する山なり弾道を描くという良質な砲身が誕生した。
また、大重量徹甲弾の採用により一発あたりが2.5トンを超えた砲弾を円滑に装填するために自動装填装置を標準装備し、八八艦隊計画艦のように再度改装を行い砲塔を大型化する必要をなくしている。
結果、1分あたり3発に迫る高速での斉射が可能となっている。
砲の計画は、1931年に既存の48センチ砲の更なる改良型の模索としてスタートしたものの、結局は発展型の開発に落ち着いた。
八八艦隊計画艦が換装を受けたのはこの計画により完成した51センチ砲のダウンサイズ版である。
試作されたのは48センチ砲、51センチ砲、56センチ砲、61センチ砲の四種で、米国の新型戦艦が大量の43センチ砲ないしは46センチ砲を搭載するとの情報から本型には51センチないしは56センチ砲を搭載することが計画された。
しかし、56センチ砲では自動装填装置を用いても装填速度が低下し、なおかつ同規模の船体には8~9門搭載するのが精々である、つまりは単位時間あたりの発射弾量が少なくなるとの判断から51センチ砲の搭載を決定。
そのかわりに12門と米国の「モンタナ」級戦艦に迫る多数を搭載することになった。
【機関】
機関は、新たに開発された艦本式波号缶と反動タービンを搭載、南太平洋からインド洋までを戦場に想定しているために長距離巡航用にドイツから導入したディーゼルエンジンを搭載した。
装甲艦「筑波」型において運用に苦労したディーゼルではあるが、巡航用に限定することで長距離巡航性能を確保。しかし球状艦首の採用によって反動タービンだけでもギルバート諸島までは進出が可能となっている。
計画時は33ノットを実現し「アイオワ」級戦艦や「レキシントン」級巡洋戦艦に対抗する予定であったが航続距離の制約からディーゼルエンジンを採用し、31ノットで我慢していた。もっともこれは、船体構造の改良によって一定以上の航続距離が得られたために失敗と判断されている。
【兵装】
副砲を全廃し、対水上と対空両用の12.7センチ砲を採用している。
これは、「長門」型の第4次大改装において試験的に採用されたものの射撃指揮装置と自動装填装置を換装したものである。
また、スペイン内戦における戦訓から低空を飛行してくる航空機に対して高速で指向でき、また1分間に50発以上の弾量を投射できる長8センチ単装砲も装備している。
これらに加えて、大量の対空火器とそれ相応の射撃指揮装置多数を装備。
巨体であるがゆえに全体にわたって対空火器が配置されることになった。
1930年代以降急速に実現されつつあった航空攻撃力に対するある種病的なまでの気の使い方がよく分かるが、実戦においてはむしろ過剰装備で、のちに40ミリ以下の機関砲の類は半数以下にまで減らされた。
航空機は、長門型や空母などに偵察を任せたことによって弾着観測や連絡などに使用することのみを想定して最大7機が想定された。
格納庫は通常は多目的用倉庫として使用され、定数は3機となっている。
【船体・装甲】
船体は広い幅を有し、魚雷による命中を想定して艦内は細かな細密区画で仕切られ、舷側にバルジという張出が、艦底で爆発する磁気感知信管付き魚雷に対抗して3重底化がなされている。
これによる水中抵抗の増加については、新たに球状艦首の採用によって17パーセントあまり削減。(これには、全溶接構造を採用したための抵抗削減も寄与している)
速力は何とか30ノットを超えることができた。
また、防御区画については、全体の7割5分あまりを主要装甲と副装甲とし、残りを副装甲で覆うという方式を採用している。
これに伴って開口部が少なくなったため、日本の戦艦としてははじめて全艦冷暖房が完備となった。(平時は大型コンプレッサーにより集めた空気を全艦に循環)
装甲は、22度傾斜した520ミリ装甲を舷側に、水平装甲として242リ、それに加えて副装甲として50ミリが船体の全面を覆うという重装甲である。
これは砲戦を想定したこともあるが、主として爆弾や魚雷などが命中した場合に備えてのものである。
これらの間には燃料タンクやコンクリート、衝撃吸収材などとともに応急注排水タンクが配されており、緊急注排水用の大型ポンプは艦内の消火などのダメージコントロール用にも使用されていた。
この船体および防護区画の設定は、1920年代末よりはじまったドイツ帝国との技術交流の一環によるもので、欧州大戦(第1次世界大戦)におけるドイツ戦艦の応急防御方式および船体防御の方針を参考にしていた。
ちなみに、ドイツ側は自国の設計技術が20年近く遅れていたことを知り愕然とし、英国側は砲塔周辺の脆弱性に愕然とし、日本側は溶接技術の稚拙さと応急処置の存在を知りまた愕然としていた。
【その他 補助兵装】
設計段階より航空機による攻撃を想定し、これに対抗しつつ敵艦隊を圧倒する弾薬投射量と装甲を持つべきだというある意味混乱した設計思想によって重装甲と大火力を両立するために船体は12万トンにまで大型化した。
これは、日本の主要港湾において運用するのにギリギリの大きさであった。
航空機に対抗するという目標から、対空用の電波探針儀を当初から装備し、射撃指揮装置も片舷あたり6つが装備されそれぞれ別の目標を把握することができた。
【解説】――米国の軍縮条約破棄と戦艦部隊の大規模な量産に対抗すべく日本海軍が作り出した超大型戦艦である。
1936年の東京およびロンドン条約の期限切れによって大量の戦艦建造を行いつつあった米国は、「アイオワ」級高速戦艦6隻と「モンタナ」級戦艦4隻に加え、砲身換装を行った「ワシントン」級戦艦10隻という大艦隊を1945年末までに整備するという大建艦計画
「両洋艦隊計画」を実行に移しつつあり、早急な対処が必要とされていた。
そのために1935年より艦政本部では試案を作成しており1936年1月には計画案「A140-F案」が採用され建造が決定するかに見えた。
しかし、計画推進派が当時の政権与党政友会総裁 中島知久平に対して海軍の艦隊派と陸軍反主流派が政権の倒閣工作を行ったことから計画は政治問題化。
建造計画は一時的に中止されてしまう。
その間に再検討と実験が繰り返された上で完成した「A145-A」案が1937年6月に承認された。
全面溶接方式やブロック工法を使用したために従来の倍近い巨大戦艦にもかかわらずスムーズに進んだという。
建造にあたっては大分県大神に新設された大規模工廠と呉第6ドックおよび三菱長崎、石川島室蘭といった新造ドックが指定され、1938年2月に一気に4隻が起工された。
1941年11月から12月にかけて相次いで竣工し、翌年艦隊に配備された。
本級の設計に満足した海軍は、「越後」型戦艦の建造が決定した。 高速戦艦「越後」型
全長 323.1m
全幅 40.9m
喫水 12.0m
基準排水量 11万4300トン
満載排水量 12万6500トン
機関 27万2000馬力(艦本式反動タービン4基4軸)
速力 33.5ノット(公試時)
主砲 52口径51センチ砲3連装4基12門
武装 58口径15.5センチ砲3連装2基
62口径12.7センチ連装両用砲10基
長8センチ両用砲単装8基
ボフォース40ミリ機関砲4連装21基
30ミリ4連装機関砲28基
15センチ28連ロケット砲4基 など
装甲 舷側500ミリ 甲板242ミリ 主砲塔630ミリ その他50ミリ(バルジ装着)
航空機 4機(最大7機 カタパルト2基)
同型艦「越後」「播磨」「備前」「駿河」
【解説】 基本的に「大和」型の改良型である。
船体の改設計と、機関を全て高圧タービンとしたことにより速度の増加を実現したこと以外は基本的に「大和」型と同様である。
1番艦「越後」2番艦「播磨」は1939年に起工された。
海軍は八八艦隊計画艦の代替として更なる新型艦を計画していたものの、空母部隊の増強が優先されたために結局は本型が日本最後の通常型超々弩級戦艦となった。
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